私はカメラの修理を仕事にしている。
成り行きでなった側面は強いが、たまたま経済生活が成り立つものがカメラ修理だったからかもしれない。
けれども、本当に興味があるのはカメラそのものだけではない。
一台のカメラを手に取ると、その向こう側にある様々なものが見えてくるからだ。
例えば技術史。
当時の設計者はどのような制約の中でこの機構を実現したのだろうか。
どのような工作機械が使われ、どのような技術が可能だったのだろうか。
次に産業史。
そのメーカーはなぜこの製品を作ったのか。
競合他社との競争はどうだったのか。
市場は何を求めていたのか。
デザイン史も面白い。
なぜこの形なのか。
なぜこの配置なのか。
なぜこの時代の製品はこのような美しさを持っているのか。
経済史も見えてくる。
当時の価格はいくらだったのか。
それはサラリーマンの月給と比べてどの程度だったのか。
どのような購買層が買える製品だったのか。
そして最後にユーザーへ流通するわけだから、個人の記憶がある。
家族旅行を撮影した人。
初任給で買った人。
毎日の仕事道具として使った人。
今となっては知ることのできない誰かの人生が、その機械には確かに隠れている。
中古市場では、どうしても価格や希少性に目が向きがちである。
しかし私にとって、それらは価値の一側面に過ぎない。
市場価格が数千円のカメラであっても、その背後には時代があり、人があり、技術があり、思想がある。
それらを知れば知るほど、単なる「安いカメラ」ではなくなっていく。
豊かさとは何だろうか。
高価な物を持つことだろうか。
多くの物を所有することだろうか。
私は少し違うように思う。
一つの物から、どれだけ多くのものを感じ取れるか。
どれだけ多くの物語を見出せるか。
そこに豊かさがあるのではないだろうか。
同じカメラを見ても、ただの中古品として終わる人もいる。
しかし別の人は、その一台から技術史や産業史、当時の社会や人々の暮らしにまで思いを巡らせる。
どちらが正しいという話ではない。
ただ、後者の方が世界は少し広く見えるように思う。
私が修理を続ける理由も、執筆を続ける理由も、調査を続ける理由もそこにある。
故障を直すだけなら修理は作業で終わる。
しかし、その機械が生まれた背景を調べ、その時代を知り、人々の営みに触れることで、一台のカメラは単なる道具ではなくなる。
そして、その面白さを誰かと共有したいと思うからこそ、文章を書き続けている。
古いカメラを残したいのではない。
その向こう側にある世界を残したいのである。